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 演奏は、期待以上の出来といってよかった。
 すべての音が踊っていた。
 指揮者のタクトとオーケストラが一体になり、化学変化を起こし、間違いなく人の力を超えた何かが生まれようとしている──そう進一は感じていた。これまで待った、甲斐があったというものだ。
 官能的なスペイン女の腰の動き、スカートのひらめきが、まるでいま目の前に見えるようじゃないか──。
 不意にベッド脇のローチェストの上の電話が鳴ったのは、そのときだった。甲高い内線のコール音だ。
 ちぇっ、これからがいいところなのに──横になったままリモコンに腕を伸ばし、進一はしぶしぶストップのボタンを押した。
 演奏が止み、突然の静寂が訪れる。誰からの通話かは分かっていた。
「はい」
 喉に痰をからませたまま、受話器を耳に当てる。
「早くしないと遅れるわよ、進ちゃん。朝ご飯の用意、とっくに出来てるって言ってるでしょ」
「分かってるよ」
「パジャマのままでいいから、そろそろ下に降りてらっしゃい」
「いま行きますよ」
 今朝、二度目の母親からの電話だ。これ以上待たせると、ここへ迎えにやって来かねない。
 受話器を置き、進一は仕方なく起き上がる。コンポの方へ行くとCDを取り出し、ケースの中にしまった。聴きかけのままの盤をそうするのは、やはりどこかに未練が残った。
 ふと見ると、壁の姿見に写ったボサボサ頭の男が、自分を見つめている。目やにのこびり付いたような眼は、まだ眠たそうに精気がない。
 やれやれこれが今日、七度目の見合いをする三十六歳の男か──自嘲気味に鏡の中の顔を、じっと進一はながめた。
 もう、緊張することもなかった。かといって、ステップを踏みたい気分にもなれそうにない。ただ何となく鬱陶しい重さが、まるで登校拒否児童だった小学生の頃のように、全身を覆っているばかりだ。
 このまま一日ベッドの上で、好きなクラシックの曲ばかりを聴いていられたらなあ──。
 無造作に頭を掻きながら、進一は大きな溜め息をついた。
 そんな生活が、このまま続いてもいいじゃないか。別に、結婚を急いでいるのは自分の方ではないし、お袋だって本当のところは……。
 そこまで呟いて進一は、口ごもらざるを得ない。
 三十六歳の男として、いまの暮らしがいつまでも続くはずがないことは、よく分かっている。だが、鬱陶しいものはどうしても鬱陶しいということも、誰かに分かって貰いたかった。
 何気なく窓の下を見ると、レースカーテン越しに、庭で土いじりをしている父親の背中が目にとまった。
 広くはない南向きの庭が一面、黄色いバラの花で埋め尽くされている。その眩しいほどの海の中を、玄関から門柱まで煉瓦敷きの通路が、カーブしながら横切っている。門柱に掛かった小さなアーチまでもが、同じ色の花で包まれている──。
 すべてが、父の公造の手になるものだ。
 休日といえば、一人で釣りに出掛けるか、庭の花の手入れをすることしか頭にない男──普段からそう自認する公造の、どこか握り拳を思わせるずんぐりした背中を、厚い雲に覆われた白い太陽が、気怠そうに照らしていた。
 今日の見合いの相手が、この父の経営する小さな印刷会社の、取引先の社長秘書だとは、五日前に聞かされたばかりだ。
 今度は社長秘書か──。
 これまでの、お嬢様然としたいく人かの相手の顔や声を、進一は何となく思い出していた。
 特に、何の感慨も期待もなかった。
 渡された写真や経歴書は、ろくに見ていない。見たいとも思わなかった。ただ覚えているのは、生年月日から素早く算出した、相手の三十四歳という年齢だけ──。
 無理もないことだが、初めて見合いした十年ほど前に比べれば、やはり相手の年齢も十歳は上がっている。それだけが可笑しかった。むろん自分にとり、そんなことはどうでも良かったのだが……。
 そのままぼんやりと窓の外を見つめながら、進一はひとつ大きな欠伸をした。
 もう少しこうしていたかった。こうしていれば、明け方に見たあの夢が、目の前に甦ってくるような気がした。
 夢──そこは、いつも同じ風景に彩られていた。
 見るたびに、そして目覚めるたびに、不思議に自分の心を癒してくれる風景が、いつも同じ顔をして遠くどこまでも広がっていた。
 見たことのない風景だ。
 むろん、そこへ行ったという記憶もない。
 映像や写真で見たという心当たりもない。
 間違いなくそこは、自分の知らない場所なのだ。それだけは何となく分かる。

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