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 下町特有のくすんだ丈の低い家々が、窓のすぐ下をどこまでも埋め尽くしている。押し合いひしめき合う彼らの喘ぎに耳を塞ぐように、どんよりとした曇り空の中を、無言で電車は走り続けている。線路は先ほどから地上を離れ、高架に差し掛かっていた。
 このまま、どこか遠くの知らない土地にでも旅ができたらなあ──誰かの指の跡のついた、背後のガラス窓をぼんやり眺めながら、藤川進一はそんなことを考えていた。
 この長くなりそうな一日から逃げ出すには、それがいちばん手っ取り早い方法なのかも知れなかった。まったく、そう思いたくなるほど気乗りのしない空の色だ。両方の靴のつま先までもが、何か気怠く重たかった。
 ──日曜の浅草行き東武伊勢崎線の電車は、家族連れらしい大人や子供たちで賑わっていた。
 みんなそれぞれ、これから浅草か上野あたりの行楽地にでも、出掛けるところらしい。車内には電車の走行音に混じって、上気したような甲高いさざめきが溢れていた。ドアの窓にべったりと額を付けて珍しそうに遠くを眺めたり、両手で吊革にぶら下がったりする子供らに混じって、中には浅草寺にでもお参りするのか、よそ行きの洋服を着てかしこまった表情をした女の子も見受けられる。
 そのすべてが、煩わしかった。
 通路の天井に下がった、週刊誌の中吊り広告の大きな文字を読むことにさえ、とうに進一は飽きていた。
 どこか遠くの知らない土地──。
 さっきから頭の中に渦巻いている、はっきりとした一つの風景が進一にはあった。その風景の中を歩いている、自分の姿があった。
 空も山も家も、大きな柿の木の手前を流れる小さな川のせせらぎも、すべてが輝いていた。いや、その風景を形づくる一つひとつのものが、ひどく鮮明で濃い陰翳にあふれていた。流れる風や時間さえもが色彩に満ち、瑞々しい匂いを放っていた。
 夢──そう、まるでそれが昨夜の夢の中に現れただけの実体のない虚像だとは、自分でもとうてい信じられないほどに……。
 その記憶が鮮やかであればあるほど、進一にはいまの自分が小さく見え、他の乗客たちの姿が疎ましく思えた。
「いいわね進ちゃん、これがあなたの目印だから忘れないように持って行くのよ。相手の方は、ベージュのスーツで髪は肩までらしいから、間違えないようにね。ご挨拶したら、まずそれをお渡しして──そう、女性はいくつになっても、お花を頂くと嬉しいものなのよ」
 さっき出掛けに、ダイニングで母の智子に渡された右の手の小さな花束を、進一は恨めしげにながめた。
 そこには、この車内でもひときわ目立つ黄色いバラの花が数本、リボンで結んだセロハン紙にくるまれていた。鮮やかな色の花弁から漂うほのかな香りが、自分の全てをいま包み込んでいるようにも思える。どこにも逃れようのない長い一日は、これから始まるのだ。
 どうせ、今日一日の辛抱じゃないか──そう自分に言い聞かせながら、何とはなしに進一は小さな溜め息をついた。
 何度経験しても、見合いの前のこの重い気分は変わらない。それが自分の性分という奴だろう。これから相手の女性と交わすはずの、あまり面白くもない会話を想像するだけで、じんわりとした脱力感が体を包んだ。
 ちくしょう、帰ったらもう一度最初からあの曲を聴き直さなきゃ──進一は、自分を慰めるようにそう低く呟いた。
 そして、やむなく途中で切り上げてきたさっきのCDの音の断片を、左手の指先で思い出そうとしてみた。
 日曜の朝はいつも、ベッドの中でとろとろまどろみながら、前日、駅前のレコード店でまとめ買いしてきた、いく枚かのCDを聴くことに決めている。
 思いきりボリュームを上げた、二つのスピーカー。流れ出る様々な色の音の重なり、リズムの跳梁。その中にどっぷりと浸らせた自分の肉体が、まるで極上のワインの中の魚のように揺れて踊り出すのを、夢の中でぼんやり感じている……。
 そんなひとときのために、俺は一週間を忙しなく働いているのだ、と進一は常々思っていた。
 それは、誰にも触れさせたくない、自分だけの世界だった。誰にも邪魔されたくない、愉悦の時間がそこには流れていた。
 軽やかなリズムの切れ──。
 弦楽器の響きもいい。
 ああ、このファンダンゴの三拍子はやっぱり、スペインのオーケストラ独特のものだな──無意識のうちに、進一は呻いた。
 曲は、マヌエル・デ・ファリャのバレエ組曲「三角帽子」。指揮は、ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス門下の実力者、エンリケ・トーレス。演奏はスペイン国立管弦楽団、という豪華版だ。
 探していたこいつを昨日、輸入盤の新着コーナーで見付けたときには、ちょっと胸がドキドキしたものだ。何といっても、ファリャとトーレスとこのオケとの組み合わせを、ここ数年どれほど待ち望んだことか。やっぱりスペインの音楽は、スペインの指揮者とスペインのオーケストラで聴かなけりゃ──。
 閉じた目蓋の裏側に、タクトを踊らせる若い指揮者の姿を描きながら、進一はひとりほくそ笑んだ。

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