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「なおき、なおきーっ一一」
 何度もそう叫んでいた。
 夢中だった。
 叫びながら藻掻き、後を追って懸命に走ろうとしていた。だが、全身にまとわりついたひどく粘り気の強い空気の塊が、そうはさせまいとでもするように、太い腕で後ろから抱き締めたまま決して放そうとはしなかった。
 そればかりか、熱くぬらりとしたものは舌の奥まで侵入し、声になる前の声を、その分厚い掌で遠慮なく押し潰した。
 喉はかすれ、息が詰まった。
 それに抗いながら、なおも叫び続けた。何度も、さらに何度も……。
 気が付くと、皺だらけのTシャツが、胸や背中にぴったりと貼り付いていた。ひどい寝汗だ。忘れ物でもしたように、胸の鼓動がまだ波打っている。
 立ち上がり、樋口はベランダのある南側の窓に歩み寄った。
 ゆっくりレースのカーテンを開けると、薄暗かったこの六畳間が、ようやくほんの少し明るくなった。ところ狭しとベランダいっぱいに並べられた、パセリやセロリなどのプランターボックスに、やや斜めになった秋の陽が、それでもまだ十分に精力的な輝きを投げ掛けている。
 いったい何だったのだ、いまの夢は一一。
 樋口はガラスの冷たさを額で感じながら、手摺の向こうに連なる灰色のミニチュアセットのような建物の群れを、ぼんやりと眺めた。
 地上五階のマンションの窓いっぱいには、この季節らしい穏やかな空がのんびりと広がっている。なのに、ほてったままの記憶のキャンバスには、まだ生乾きの光沢を放つ毒々しい色の絵の具が、苦い残像となってしっかりとこびりついたままだ……。
 一一先の尖った紅い頭巾。
 同じ色の長いマントに身を包んだ男が、踊るように石畳の路を歩いている。
 肩から紐で下げた長い縦笛を、両手の指先で器用に操りながら、男の唇が不思議な音色をつむぎ出す。スカートのように広がった笛の先からこぼれ出たメロディーが、周りにゆっくりと広がって行く。くるくると回転する奇妙な半音の連なり一一。それは、これまで一度も聴いたことのない、どこか遠い国の旋律だ……。
 首を振りながら、樋口は窓のそばを離れた。すべてが鮮やかで、生々しすぎた。そこから見える風景は、いまの夢の続きを思い出すには、あまりに平和すぎるように思えた。
 気が付くと、オーディオラックのCDプレーヤーが点けっ放しになっている。
 ボタンを押し、樋口はとうに演奏の終わった銀色のディスクを取り出した。ケースのジャケットに印刷されたモネ風の風景画の上には、そのCDのタイトルが洒落た斜体の白抜き文字で書かれている。「マクサンス・ラリュー/七つのフルート幻想曲」一一。
 そうだった。こいつを聴きながら、いつのまにか寝込んでしまったのだ……。
 CDプレーヤーのディスプレイに表示された、オレンジ色のデジタル時計の時刻は、まだ午後の二時三十六分。眠っていたのは、どうやら三十分にも満たない間だ。そしてあの夢を見ていたのは、そのうちの最後の何秒間だったのだろうか?
 専用のラックにCDをしまうと、樋口はさっきまで自分が横になっていた畳の上に、所在なげに一人で胡座をかいた。
 枕代わりに使ったクッションのすぐ横に、ページの半ばを開いて伏せたままの、一冊のハードカバーの本が置かれていた。『グリム童話集』一一。狼と子山羊の水彩イラストが描かれた表紙には、そんな大きなタイトル文字が踊るようにレイアウトされている。先週、息子の直樹と二人で駅前の書店へ行き、樋口が買い与えたものだ。
 その本を買った理由は、他でもない。
 最近、テレビゲームやコミックにばかり夢中になっている小学三年生の息子に、少しは活字を読むことの面白さを味わわせてやろう、という親心のつもりだった。イラストよりは文字の多い本を、というのも自分なりの方針で決めたことだ。それに無難といえば無難だが、意外にリアルで残酷な話の多いグリムを選んだのも、どこかひ弱な体質を持つ息子への、父親としての計算が働いたせいかも知れなかった。
 一一その直樹が、日曜だというのに今日はいない。
 いないのは息子だけではなかった。妻の夏子も、朝から出掛けている。彼女の妹の久美が先月引っ越したという、K市のマンションへ二人して遊びに行ったというわけだ。
 最近離婚した義妹は、商社勤めをしながら、引き取った六歳になる長男の淳と二人で、このすぐ隣にある千葉県のK市で暮らし始めたばかりだった。昨夜の妻の長電話は、その辺りの互いの近況報告と、今日の訪問についての下打ち合わせを兼ねたものだったらしい。直樹も、久しぶりの従兄弟との再会を、心待ちにしていたようだった。


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