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俺の顔はどこへ行った──ときどきそう思うことがある。
顔だけではない。姿も声も、いや、自分というものの存在自体が、疑わしく思えるときがある。
だいいち、名前を覚えて貰えない。野中というどこにでもありそうな苗字に、信二というこれまた掃いて捨てるほどもありそうな名前。それがどうにも、すぐには相手の記憶の感熱紙に印字されにくいらしい。
仕事先で確かにしっかり名刺を手渡し、二時間以上も顔を突き合わせて打ち合わせをした初対面の相手に、
「ええと、先日たしかお会いしましたよね……」
次に会ったときにそう訊かれたことがある。どうも確信が持てない、という様子なのだ。それが一度や二度のことではない。
一人のときはまだいい。会社の、他の誰かと同席したときなどは、さらに悲惨だ。
「あのとき○○さんとご一緒に、お見えになった方──」
そういう屈辱的な言い方で、後日、電話に呼び出されたことがある。○○さんは、同じ営業部の後輩だった。
さすがにそのときはわざと、
「野中です」
と、不機嫌そうな声で抗議の意思表示をしたりもした。が、相手はこたえない。名前を忘れたというよりは、どうもこちらを一つの個体として認識していないようなのだ。声と名前と姿をどう繋いでも、それがすっぱりと一つに結像して、目の前に現れてはくれない──そんな困った様子がありありと窺える。
何に例えればいいのだろう。
アリス──小学生時代、野中がその格好良さに憧れた三人組のバンドだ。が、ボーカルの谷村新司にベーヤンの堀内孝雄は思い出せても、もう一人のパーカッションの顔と名前がすぐには出ない。
ニキビ盛りの頃、少しまぶしい視線で見上げていたテレビの中のたのきんトリオには、田原俊彦と近藤真彦の他に、ぽっかりと開いた穴のように置き忘れられた、三人目の“誰か”がいたはずだった。
そして同じ頃、テレビのアニメに登場した鉄腕アトムには、妹ウランの他にもう一人、知られざる弟がいると誰かが言ったっけ。その名前を確かに聞いたはずなのに、なぜかどうしても思い出せない……。
そんな“第三の男”の宿命がどうやら自分にもあるらしい、と野中は思っている。
それが、このいっこうに上がらない自分の風采と、子供の頃から引っ込み思案で相手の顔をまともに見ることも出来ない性格のせいだとは、何となく分かっていた。誰のせいでもない。生まれつき、影が薄いタイプなのだ──そう自分に言い聞かせることで、膨れ上がりそうになる不満の種を押し潰すのが、野中のこれまでの常だった。
零細広告代理店の営業マンなぞ自分には向いていないのだ、とつくづく思うこともある。
二十三でいまの会社に入社してからこの十数年、転職しようと何度考えたことか。だがその度に、どうせ自分が辞めたところで痛痒を感じる者などいるはずが無いという忌々しさと、こんな男にそう簡単に次の仕事が見つかるのだろうかという不安が、重い鉄扉のように心の視界を塞いできた。根が怠惰で思い切りの悪い性格が、そんなサラリーマン生活を今日まで持続させてきた。
俺の顔はどこへ行った──そんな悩みを抱えながらも何も変わろうとしない自分に、このごろ野中は一人で溜息をつくことが多い……。
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しまったなあ──。
北千住駅西口の階段を下り、バスロータリー前のむせ返るような人込みの中を左の方に歩き出したところで、野中はその馴染みの居酒屋が先月から閉店していたことを思い出した。
迂闊だった。駅の改札を通り抜ける前に気が付けばよかった。
どうしようかと迷いながら、そのまま地下鉄千代田線の駅の前を通り過ぎ、煌々とした看板の続く飲食店街の狭い路地の方へと歩いた。喉が渇いている。どっちみち、このままおとなしく引き返すわけにも行かなかった。
幕張メッセの展示会に出すブースの見積書作りで残業し、クライアントにファクスを送ったのが夜の九時少し前。
いくらなんでも便利屋じゃあるまいし、この不景気のご時世に、昨日の今日とそう簡単に数字が弾き出せるはずがないだろうに……。ぶつくさ呟きながら会社を出、上野駅から常磐線の快速電車に飛び乗って吊革を掴んだときには、もうチリチリというビールの泡の弾ける音が耳の中で飛び跳ねていた。車内に満ちた、帰宅途中のサラリーマンたちの汗臭い熱気が、さらにそれに火をつけた。
ここはどうでも、冷えた生ビールと焼き鳥で軽く一杯やらないことには、頭の中で燻り続けるさっきまでの数字の残像が鎮火しそうにもない──。
乗換駅の北千住を野中が途中下車する気になったのは、そんな理由からだった。それに、ここからなら自宅まで後は東武伊勢崎線で一本だし、という安心感もあったのだ。
ほかに馴染みと言えそうなあてがあるわけではなかったが、どこか安くて気楽そうな店でもあれば、と首筋ににじみ出した汗を感じながら、野中は焼き物の煙が漂う一本の路地の奥に入り込んだ。
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