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飲み込んだ唾の塊が、喉元でゴクリといやに大きな音を立てた。すっかり渇き切ったはずの口の中に、新しい唾液が湧き出して来るのが不思議だった。
ちくしょう、トマトがこんなに美味そうに見えるなんて──。
低い声で一人呟きながら、井波は道の両側に広がる青々とした野菜畑を見回した。そこには、この季節らしい豊かな葉を茂らせた露地栽培のトマトが、畝に沿って並んでいた。葉の中からは収穫前の青いものに混じって、大人の拳のような大きさの真っ赤に熟した果実が、ところどころ顔を覗かせている。
あの赤く熟れた奴をむしり取って、思い切りかぶりついてみようか──誘惑の声が、また耳元で聞こえた。そんな言葉に負けそうになる自分が、井波は無性に腹立たしかった。
あれは人間の食うものではない、と信念のように思っている。
子供の頃から、トマトを見ると虫酸が走った。血の味を思い出させる青臭い汁が、口の中に広がることを想像するだけで吐き気がした。七歳のとき、泊まりに行った叔母の家で泣きながら食べたのを最後に、今日までもう二十五年もそれを口にしたことはない。
そんな男が人目を忍んで、盗んだトマトにかぶりつくなんて死んでも出来るものか、と井波は思った。それも、こんな片田舎の県道の道っ端で、だ……。
白く伸びたアスファルトの舗道──。
どこまでも晴れた空の真ん中に、引き抜いた日本刀のような太陽が、ギラリとした輝きを放っている。人も車もまるで影がない。気温は間違いなく、先程より上がっているらしい。
右手のアタッシェケースを地面に置くと、井波は立ち止まり空を仰いだ。ヨレヨレになったハンカチで顔の汗を拭い、ネクタイを緩めたワイシャツの首の周りをゴシゴシと拭く。熱くヒリヒリし始めた喉から大きな息を吐き出すと、胃袋の辺りがキュウと情けない音を立てた。
いったい、どうしてこんなことになったんだ──自嘲気味に、井波は大きな声で独りごちてみた。そして、昨夜この街に着いてからこれまでのことを、何となく脳裏に思い浮かべてみた。
東京に本社を持つ展示製作会社の営業部員、井波賢三が関西の小さな地方都市の駅に降りたのは、前日の午後十時を少し過ぎた時刻──。
ここへ来た目的は、市が計画中だという歴史博物館の設計競技への参加申込書を提出し、担当者に挨拶するためだった。大阪の営業所から情報が入り、設計能力のある東京本社が手を挙げたというわけだ。厳しい競争をくぐり抜け、そういった各地の博物館などの展示の設計や施工を受注するのが、井波の所属する部署の主な仕事だった。
井波がこの街で最初にした仕事──それは、まだ済ませていない晩飯の店を探すことだった。
だが、シャッターのズラリと降りた狭く薄暗い駅通りには、数件の小さな飲み屋を除いて、それらしい食事の出来そうな店はどこにもなかった。当てが外れた。ファミリーレストランはおろか、コンビニらしい明かりさえ見当たらないのだ。
腹が減っていた。途中の電車内で駅弁を食う時間もあったのだが、井波がそれをしなかったのは、あの冷たい飯の味にすっかり飽き飽きしていたからだ。
仕方なく、そのまま予約していたビジネスホテルまで歩き、チェックインしたついでにフロントで、食事が出来るかどうかを訊いてみた。
「お食事ですか?──」
一瞬、困惑した表情を浮かべた係の青年は、しかしすぐに、ホテルの一階にある閉店間際のスナックに電話を入れてくれた。そこでの返事は、簡単なサンドイッチ程度なら、というものだった。
「他に食事の出来るお店となりますと、この時刻はラーメン屋さんくらいしか開いてないんですよねえ」
いかにも申し訳なさそうに言う青年の顔を見ているうち、井波の心はすっかり萎えてしまっていた。移動による乗り換えなどで、疲れてもいた。今夜は消化の良いものを食べ、早くシャワーを浴びて寝てしまいたいという気持が、むくむくと頭をもたげた。
そんなわけで、部屋に届けて貰った一皿のサンドイッチとビールが、井波のその日の遅い晩飯になった。
翌朝の誤算の始まりは、モーニングコールが予約した時刻より、二十分ほど遅れて掛かってきたことだ。
「冗談じゃないよ、まったく」
慌てて飛び起き、身繕いして二階のフロントに降りたときには、もう朝食を摂る時間さえなかった。平謝りする相手が昨夜の青年ではそう強いことも言えず、支払いを済ませると井波は、自動販売機で買ったホットコーヒーの缶を片手にホテルを出て、客待ちしていたタクシーに飛び乗った。市役所の玄関前に車が着いたのは、約束した十時のわずか五分前だった。
都市計画課の担当者は、腰の低い中年の男だった。
「わざわざ遠い所から、恐れ入ります」
この地方独特のイントネーションで迎えた相手に、慣れた口調で慇懃に挨拶を済ませると、井波は所定の様式の書類に会社案内のパンフレットを添えて差し出した。
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