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主人が姿を消したのは、十月八日の夜でした。
私がそのことに気付いたのは翌日の朝になってからで、迂闊といえば迂闊だったといまでも後悔しています。でも、まるで蒸発──。ええ、本当にあの人は液体が蒸発でもするように、一晩のうちにこの家の中から、きれいに姿を消してしまったんです。
あの夜、私が床に就いたのは、十一時を少し過ぎた時刻だったでしょうか。
そのときすでに、主人は寝息を立てておりました。はい、普段から私より先に休むのが、あの人の習慣でしたの。私が外で働いている関係で、帰宅して家の中の用事をあれこれ済ませ、入浴して床に就く頃には、どうしても十一時を回ってしまうものですから……。
それに、あの人も朝が早かったんです。
なにしろここは、都内にある勤務先の会社まで行くのに、毎朝、七時前には家を出なければならない所ですからね。最寄りのバス停まで歩くのにさえ、十分近くは掛かります。そこから市営バスで駅へ出て、駅から電車を乗り継いで、市ヶ谷までまた一時間ちょっと──。
でもご覧の通り、住む環境としては申し分ありませんわ。緑も十分残ってますし、近所には畑なども……。小さな庭ですが、ここには野鳥なんかもよく来るんですよ。
そうですね、買い物などはいつも私が勤めの帰りに、駅通りのスーパーや商店で──。私ですか? 私は地元の不動産会社で、もう十五年以上も事務の仕事をしておりますの。気が紛れると申しますか、一人で家にじっとしているよりはその方が……。ええ、もちろんそれだけじゃなく、この家のローンのこともございますしね。
その日の主人は、朝から少し頭痛がするというので、会社を休んだんです。
珍しいんです。丈夫な人で、それまでめったに欠勤したことはなかったんですよ。私も心配で、その日はいつもより少し早く、午後六時頃には帰宅したことを覚えています。
でも、そのときには主人はすっかり回復していて、夕食を済ませた後は、普段と変わらない様子でテレビを観ておりました。むしろ、いつもより機嫌がいいといったふうで、珍しく声を立てて笑いながら観ていたのを、いまでも覚えてますわ。いいえ、子供がいないせいもあって、もともと二人ともあまり賑やかな番組は好みませんでしたが……。
え、お酒ですか?
まあ、たまに仕事上のお付き合いで酔って帰ることはありましたが、主人は根がアルコール好きではないものですから、うちで飲むということはありませんでした。ですからここには、お酒のたぐいは置いてないんです。もちろん、晩酌なんかもまるで……。ええ、健康にはわりと気を使う方で、煙草は他人の煙さえ気にするほど嫌いでしたね。
十時頃入浴を終えて、その後、寝室へ入るという日常でした。ああ、寝室と申しますのは、そこの八畳間の和室のことなんです。
寝床で、少し日記を書くという習慣がございましたが、その晩も私が床に就くとき主人の枕元には、閉じた日記帳の上に愛用の万年筆が、いつも通りきちんと置いてありました。スタンドの明かりはすでに消してあり、熟睡しているように見えました。──ええ、いまでもあの寝息は、決して作りものではなかったと思いますわ。
私が主人の姿を見たのは、それが最後なんです。でも、まさかあの人が夜中に家を出るとは、少しも……。
お恥ずかしい話ですが、翌朝の目覚ましで起きたときに、そこで初めて主人の床が空なのに気付いたしだいなんです。いえ、途中でそれらしい気配や物音なども、まるで……。すぐ隣の布団で寝ていながら、私って少しも──。え、起きた時刻ですか? 目覚ましはいつも、六時十分前にセットしてありましたの。
そのときは、小用を足しにでもと思っていたんです。
ええ、年齢のせいか近頃はそんなことも、ときどきありましたから。まして、あの季節でしょう。もうすでに朝晩は、かなり冷え込むようになっておりましたしね。
ところがその日は、いつまで経っても姿が見えないんです。戻って来ないんです。
それがあまりに遅いものですから、私、ようやく心配になりまして、それから慌てて……。
ええ、トイレはもちろん、家中を捜して回ったんです。浴室や納戸も、それに変な話ですが、最後は押入や洋服箪笥の中までそれこそくまなく……。ですが、どこにも夫の姿は見当たりませんの。
よく調べてみますと、着替えをした様子はありませんし、その日の朝刊にもまだ手を着けないままなんです。
そこで、ひょっとして庭にでも出ているのでは、と──。そう思い、自分も外へ捜しに出ようとして、初めてハッと気が付いたんです。何と言っていいのか……。ええ、家中の出入口や窓という窓のすべてが、前の晩、私が最後に戸締まりをしたままだったものですから。
分からないんです。いったい、どうやって主人が外へ出たのか、いまもって分からないんです。まさに蒸発したとしか言いようのない、姿の消し方なんですもの。
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