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 それ以来今日まで、当人からは何の連絡もありません。姿を見掛けたという話もございません。主人の身内や友人の方たちを始め、私、心当たりは全て捜し回ったのですが……。なぜあの人が突然この家を出たのか、それさえ私には見当が付かないんです。
 え、女性関係ですか? まさか、それは──。
 少しはそれくらいの器用さがあの人にあれば、私もこれほど心配しなくて済むのかも知れませんわね。ほんとうに実直で、真面目すぎるほど真面目な人なんです。それだけにむしろ、私には怖い気がするんです。

 ここに、主人がいなくなるその夜までつけていた、最後の日記がございます。何かの手掛かりになるのではと思い、持って参りました。これがあの人にとって、もう何冊目の日記になりますかしら。
 ご覧のとおり、どこにでもあるような市販の日記帳ですが、主人はこれをとても大切にしておりましたの。きっとあの人には、かけがえのない心の息抜きだったんでしょうね。あるいは、眠りに就くための儀式が、必要だったのかも知れません。
 あの夜のことがあってから、結婚以来初めて私も主人の日記を読んでみました。ええ、ほんとうに初めて……。それまであの人は決してこの中を、私にさえ見せたことはなかったんです。
 いまから考えてみますと、主人はかなり疲れていたのだと思いますわ。
 ふだんから仕事のことは、家ではあまり口にしない人でした。それに、仕事以外のことも自分からはめったに……。それが、姿を消す前の一週間は、なにかに輪を掛けたように無口になっていたような気がします。まるで、目の前にいる私の存在さえ忘れてしまったように……。
 きっと、参っていたのでしょう。
 疲れ果て、一人で悩んでいたのかも知れませんわ。そうでもなければ、あのような夢を見る人ではありませんもの。

 この日記をお読みになれば、お気付きになるかも知れませんが、主人は一種のノイローゼだったのではないでしょうか。
 仕事の上のトラブル、会社での人間関係──。
 そういったもののストレスが過度に溜まり、心身を疲れさせ、夢の中まで影響を及ぼして、主人を日ごと責め続けていたのではないでしょうか。
 そうですとも。そうとしか思えませんわ。そうでもなければ、決してあのような夢を見る人ではありませんもの……。
 九月六日
 台風が沖縄近海に。この二、三日蒸し暑いのは、そのせいだろうか。朝、いつもの電車の到着が七分遅れる。前の駅でドアの不具合があった、というアナウンス。仕方がないが、そのぶん余計にホームに立たされるのは、かなわない。
 金居君に長女が誕生したというニュース。奥さん似なら美人になるだろう。課でもお祝いをしなければ。午後、宇野部長と新潟のシネコン入札の件で打ち合わせをし、退社後は二人そのまま「津和野」へ。Pさんも五分後に席に到着。八時頃、家に電話を入れるが、妻もまだ帰っていない様子。十一時に帰宅。
 それにしても、昨夜のあの物音は何だったのだろう……。

 九月十一日
 一日中、風が強い。三陸沖に去った台風の余波が、まだ残っているのだろうか。庭の無花果の実はひとたまりもない。朝、傘を持参するつもりが、つい忘れる。幸いにも今日は降らなくて良かった。このごろ、天気予報はよく外れる。
 来週、大阪へ出張することになりそう。官公庁の仕事も本当に久しぶりだ。八時に帰宅。妻の帰りが相変わらず遅い。
 昨夜、またあの物音を聞く。なんとなく不気味だ。

 九月十六日
 久しぶりに朝から快晴。地下鉄の階段を昇ると、空の青さが目に染みた。昼休みのビル街に珍しくトンボを発見。もう秋なのか。そのせいでもないだろうが、昼食後にコーヒーの美味い店を見つける。会社からは少し遠いが、これからときどき寄っても良い。江崎君もあれで、かなりのコーヒー通のようだ。
 午後、明後日の出張の打ち合わせで、大阪支社に電話。長谷川も元気そうな声で安心した。あの長男がイギリス留学とは知らなかった。
 八時半帰宅。いつもより長く風呂に浸かる。
 昨夜、五日ぶりにあの音を聞いた。枕元の時計を見ると、午前三時少し前だ。妻は眠っていて、何も気が付かない様子。それにしても、やはり少し気になる。

 九月十八日
 変に蒸し暑い日。曇天だが、ときどき強い雨が降る。羽田発9時20分の便で大阪出張。こんな荒天の日に飛行機に乗るのは、あまり気持ちのいいものではない。
 昼食後から夕方ギリギリまで会議。スタッフの数も減り、支社もリストラが進んでいるようだ。少し老けたが、長谷川はいい顔をしていた。長男の話になると、ひときわ笑顔なのが印象的。期待が大きいのだろう。
 昨夜また、はっきりとあの音を聞いた。何かの足音のようだ。それも、ひどくゆっくりとした足音。時刻は午前二時四十六分──。
 帰りの機内でそのことを藤田に話すと、笑って猫ではないかと言う。しかし、家に猫は飼っていない。だいいち、猫は足音をたてない動物だ。


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