1986年10月11日
気持ちよく晴れた秋空。小浜駅前発11時30分の路線バスは、若狭街道を東に向かって快適にひた走る。しばらく行くと道は深い山々に包まれ、窓の両側に山影が立ち塞がった。ずいぶん山の中へ来たものだ。ここはかつて“鯖街道”とも呼ばれ、古くから若狭湾で獲れた海の幸を、京の都へ送る動脈として活躍してきた道。しかしこの分では、往時は暗くなると山賊などが横行したことは、想像に難くない。おお、こわ〜!
 もっとも、その若狭街道もいまでは国道303号線。道路だけはきれいに舗装され、かつての面影はない。で、今度の目的地はかつてその宿場の一つとして栄えた熊川というわけだが、何故かどこにもそれらしい集落が見当たらない。
 仕方なく、この辺りだろうと見当を付けバスを下車。少し不安を抱えつつ停留所から5分ほど歩き、偶然見つけた駄菓子屋でガムを買うついでに道を尋ねる。答えは、一発正解! なんとその店のすぐ裏側が、新しい道路から取り残された旧若狭街道への入口だったのだ。う〜ん、これはちょっとミステリアスだなあ。
 おそるおそる歩を進めると、熊川宿の古い家並みと遠くの山々の緑が、静かに目の前に迫ってきた…。
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人影も車もまるで見当たらない、旧若狭街道沿いの熊川宿の家並み。国道303号のバイパスがこの集落を避けて開通したため、幸か不幸か、かつての宿場の姿がそのまま残された。
格子と水路の取り合わせが美しい勢馬家。旧問屋で屋号を「菱屋」という旧家だとか。問屋は、物資の継ぎ立てや資金の賃貸、人足・馬方の出入りなど、宿場の経済的中核を担っていた。この家は、熊川宿のかつての繁栄を支えた実力者だったのだろう。
街道に沿って町なかを流れる水路。かつて生活用水や牛馬の飲料水、防火用水として利用された。
 水量は豊かで、山の宿場に相応しい音が絶えず流れる。雪解けの頃には、さらに水音が高くなるのだろう。いくつもの古い石橋が、その上を跨いでいる。この町の景観に情緒をもたらす、なくてはならないものの一つが、この水路に違いない。
 
 熊川宿の起こりは、浅野長政が天正17年(1589)に、この地が交通と軍事の要衝であることから、諸役免除して宿場町にしたのが始まりだという。以来、40戸ほどの寒村が200戸を超えるような町となった。

埃だらけという印象の、問屋荻野家。一階の格子に、つし二階の塗籠壁という取り合わせが、この家の歴史の古さとかつての壮麗さを思わせる。
この集落でも数が少ない茅葺きの家。農家なのだろうか、庭でおばさんが何かを干している。すぐ背後に迫った緑の濃い山々。なんとものどかな風景だ。

「福助ミシン」の琺瑯看板も懐かしいタカゲン商店。何を売る店なのだろう。つし二階、塗籠壁、虫籠窓にバッタリ(縁台)と、江戸期の商家の特徴を備えた建物だ。この辺りは平入りと妻入りの家々が混在し、変化に富んだ景観を形作っている。こういう町を歩くのは楽しい。
 下の町から中の町そして上の町と、旧若狭街道沿いに約1.5kmに渡って続く熊川宿を歩き終えたのは、午後1時頃。山に囲まれたかつての宿場は、いまはすれ違う人もない静かな田舎町だった。それにしても、美しい遠景の山々、清冽な水の流れる水路、そして緩やかにうねる旧街道、と町を形成する環境はどれも素晴らしい。こんな奇跡的とも言えるほど条件の揃った、熊川の伝統的な家並みを後世に伝えるのは、きっと現代人に課せられた使命なのだろう。

 この後、とろろ飯の昼食を慌ただしくすませ、1時15分頃の今津行きのバスに飛び乗る。今津からは湖西線で京都へ。青々とした琵琶湖を左手に見ながら南下する湖西線の車窓は、この旅の終わりを飾るに相応しい美しさだった。


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