1995年5月10日
紀勢本線の電車の中で広げたスポーツ新聞には、「テレサ・テン死亡」の活字が一面を埋めていた。彼女の身に、いったい何が起きたのか…。どんよりと晴れた空が、熱を帯びた水銀のように地上を照らしている。松阪に着いたのは、そんな日の昼だった。

 蒲生氏12万石の城下町は、言わずと知れた松阪牛で名高いところ。昼食に、駅前のレストランで食べた2000円の焼肉定食は、とろけるように旨かった。
 幸せな気分でゆるゆると裏通りを歩き始める。目の前には、思いのほか奥深い家並みが静かに続いている。まるで作り物のような松の枝振り、長い黒板塀に連続する格子の窓。白昼の幻を見るような、江戸時代の商家がそこにあった。
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大通りの交差点には、こんな石の道標が。左・さんぐう(参宮)、右・わかやま道(和歌山道)。参宮街道は伊勢街道とも言い、伊勢神宮へと続く古道だ。昔から多くの旅人が、ここを通ってお伊勢参りをしたのだろう。旅は楽しい。おお、タモリの看板も笑ってらあ!
どうしても分からない。もう五月だというのに、この辺りの古い民家の玄関には、いたるところにまだ正月のしめ飾りが…。まさか町中揃ってついうっかり、と言うわけでもあるまいし。これって、この地方の風習なの? 
二匹の龍がにらみ合う不思議なレリーフ。入口が左右に分かれているところを見ると、この妙な造りの建物は銭湯か? そう言えば右の龍は猛々しく、左のはどこか優しそう。
松阪と書いて「まつさか」と濁らずに読む。あの三井家を始めとする、松阪商人の発祥の地として知られるが、いまでもさすがに豪勢な町家が多い。中でもこの志田家の黒漆喰の蔵は、やはり存在感がある。
 が、それにしても暑い。花曇りと言うのか、空全体が白く発光しているような真昼の住宅街だ。
かつて松阪城の警護に当たった武士たちの屋敷だという、御城番屋敷。槙の生け垣が美しい巨大な長屋だ。なんと、今は民間のアパートとして、一般の人が住んでいる。内部は意外なほど広いが、家賃もまた意外なほど安いらしい。いいなあ、ここ。

日陰を選んで、オバさんが自転車でやってくる。家々の落としたひんやりとした影が、懐かしくも優しい小径を作り出す。時間が止まったような魚町の午後。ここでは、住民と町並みが仲良く共生している。

 町歩きの後、松阪城址に登る。汗が体中に噴き出す。高い石垣の上から城下の街を見渡しながら嘗めた、アイスクリームの味はまた格別。殿様の気分とはこのことだろうか。ああ、余は満足じゃ。
 美しい家並み。濃い緑の影。そして、至るところに流れる文化の香り…。松阪の街の全てには、ゆったりと時が流れている。今度来るときはぜひ一泊して、夜は安い牛モツ屋で一杯やりたいものだ。


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