町並み漫歩館トップページ 長浜 時期:1986年10月10日
場所:滋賀県長浜市


体育の日(当時は10月10日)。豊臣秀吉がまだ羽柴秀吉と名乗っていた頃に築いた城下町、滋賀県の長浜にやって来た。
織田信長より与えられた所領地・今浜を、信長の一字をとって長浜と改名した秀吉が、この地に城と城下町を構えたのは天正の初期のこと。つまり長浜は、若き秀吉が城持ち大名として、最初の一歩を踏み出した町なのだ。
信長が浅井氏の旧領だったこの地を秀吉に与えたのは、浅井長政を攻め滅ぼし、嫁いでいた妹のお市やその娘たちを、戦火の中から救出した勲功によるもの。「サル、よくやった!」ということか。だが、そこですかさず新領地に主君の名の一字を用いるあたりが、秀吉のしたたかな世渡りという奴なのだろう。うまいなあ、この男…。

東京を発った新幹線「ひかり」を新横浜で「こだま」に乗り換え、米原に着いたのが午後の一時頃。そこから東海道本線で、長浜までは10分足らずだ。
うす曇りの空の下、降り立った長浜駅を出ると、琵琶湖から吹く風が少し冷たい。人影の少ない町は、いかにもうらぶれた地方都市という感じで、さっそく古い町並を求めて北国街道沿いにぼちぼち歩き始める。
やって来たのは、朝日町あたり。腰壁に船の古材を使った、独特の「船板塀」の商家が建ち並ぶ一帯は、まさに“モノトーンの町”といった印象。それにしても船板のリサイクルとは、いかにも琵琶湖畔の商都に相応しい工夫なのだ。
マップ

「北こく道」の石標が立つ町角。見事な造りの商家の前を、若い娘の自転車が通り過ぎる。いいコントラストだ。
家に日の丸が掲げてあるのを見て、今日が祝日だということを思い出した。

駅前にあった『出逢い』と題された銅像。
この地の領主・秀吉が鷹狩りに出た折り、立ち寄った観音寺で茶を所望したところ、持ってきたのが寺小姓の少年。最初はぬるい奴をたっぷりと、つぎに少し熱めのを半分ほど、そして三杯目は熱い茶を少しだけ…。その賢さに感心し秀吉がスカウトした佐吉少年こそ、後の石田三成だったというわけだ。

この像は、そんな「三献の茶」のエピソードを表したものらしいが、しかし領主様に立ったまま茶を差し出すというポーズは、少し不自然じゃないか…?

秀吉の長男・秀勝の菩提寺、妙法寺を訪れる。本堂の呼び鈴を押したら、すごい足音でオバさんが出て来た。
秀吉が側室との間にもうけた初めての子供・秀勝は、残念ながら6歳で夭折。その廟所は訪れる人もなく、ひっそりとしたままだ。この少年がそのまま成長していたら、戦国の歴史は大きく変わったかも知れないのだが。

明治時代のガス灯が今も残る町屋。
往時の商都の繁栄ぶりを思わせるが、青白いガスの灯が煌々と輝くさまを、町の人々はどんな目で見つめたのだろうか。

いかにも長浜の商家らしいおもむきの白嘉油店。ここにもまた船板塀が。
琵琶湖の水上交通に活躍した船の古材が、今度は形を変えて家々を風雨から守る…。長い歴史を経て生まれた知恵なのだろう。

元浜町の今重酒店は、丈の低い二階といい美しい格子といい、歴史の重みを感じさせる商家だ。「今重」と大書された看板や角の置き石も、まるで時代劇のセットのようにデザインされている。これで無粋な交通標識などがなければ、完璧と言いたいところなのだが…。
それにしても人影の少ない通りには、歩くほどに次々と重厚さを漂わせた町屋が現れる。漆喰や木肌の渋い色が、それらの経てきた年月の長さを物語り、この町に住む人々の秘かな息遣いをさえ感じさせる。そういえば祝日に日の丸を揚げる習慣が、ここではまだ生きているのだな。

羽柴秀吉が築いた城下町長浜は、転封により彼がこの地を去った後も繁栄を続け、江戸期以降は「長浜御坊」大通寺の門前町や北国街道の商都、また琵琶湖水運の港町として大いに賑わった。豪奢な商家がいまも多く残るのは、その時代の名残なのだ。長浜の町衆にとって秀吉という男は、たぶん永遠の恩人であり輝き続けるヒーローなのだろう。
歩き疲れて午後3時半頃、駅舎に戻る。次はここから、北陸本線で敦賀に向かう予定。遠くにポツンと立つ鉄筋コンクリート製の長浜城が、一面の雲の下でどこか肌寒そうに見えた。


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