No.4(2001年2月26日)
山口嘉民:文
●折にふれ、作者の近況や心境などをお知らせします。




お寺の庭から見た現在の我が村

お寺について

当時はもちろんこんなにきれいじゃなかった山のお寺が、分校の新築工事の間約1年半、我々の学校だった。(昭和38年頃)

休み時間には、ご先祖の墓石の裏でかくれんぼしてあそんだな。
ジネンジョほってあそんでたら、骨がでてきてびっくりしたな。
お寺だから、朝と帰りは板の間の拭き掃除を、雑巾しぼって子供達全員で毎日やらされたな。
囲炉裏で餅を焼きながらの授業だったり、このころはほんとにたのしかったな。

セピアの写真みたいになった記憶。

アトリバ尾続工房

アトリバとは、画家の二村卓児氏の造語。
アトリエと作業場を引っ掛けてある。
彼は足かけ10年ほどこの工房の住人だったが、
21世紀を機に千葉の方に移っていった。
制作は作業とはちがうけど、下ごしらえやフレーム作りなど、制作以前のことって結構多い。
答えがたいがいあるのが作業で、答えがあるかどうか分らないのが制作。

これだけ広いと(約70坪)、いろいろな作業を平行して同時進行できる。
広いスペースって作品と距離がとれるし、離れては描いてまた離れてというように、けっこう運動できる。
全体が俯瞰できて細かい所が気にならなくなる。
20世紀にピカソはお城で絵を描いていた。
21世紀を機に夜郎自大な僕の制作環境は、このアトリバに移行することになった。


尾続(おずく)分校について

写真の中程の銀杏の木の下が村の分校。昭和38年に新築し、1年だけ通ったが生徒が少ないため廃校になった。
中島富枝先生は、東京の吉祥寺がお住まいだったが、戦時中の疎開が縁で、分校に泊まり込みで週末だけ家に帰る生活をしながら、我々に教えて下さっていた。
1,2年生と3,4年生、5,6年生の3クラスしかないので、1年生の時に2年生の授業憶えちゃったな。
これはアトリエの窓からみた現在の風景。
今は村の集会場になっている。
同級生は7人いたが、今日、村に残ってるのは僕を入れて2人だけ。
分校の事に関しては 僕の絵にとっての原点だし、
記したいことが結構あるので、今後少しずつ思い出して掲載していきたいと思ってます。



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