No.8(2002年12月1日)
山口嘉民:文
●折にふれ、作者の近況や心境などをお知らせします。


富士山を描きに行った

教室のお母様方、画家の安原耕太朗氏、陶芸家の中村三郎氏等と。

まず忍野役場に寄って観光地図をもらい、見当をつけて二十曲峠というところに行った。 富士山を描くぞーって、いきなり行って、山があんなに良く見えたのは全く運が良かった。
案の定、午後からは逆光ともやで山は全く見えなくなったので、皆で忍野八海を観光した。
薪のストーブ

寒々しい機械工場跡バラックの我がアトリ場で、冬中、石油を燃すのはいかにももったいないことに気が付いたので、今季から薪で暖房することにした。
なにしろ周りには木は燃すほど?あるし、石油にくらべ 暖房能力は劣るけど、火って見てるだけで暖かくなる。おおげさな言い方だけど、土に触りたいって事と火を燃したいって本能が、人にはあるとおもう。
土と火がない暮らしは、ホテル暮らしみたいなもんじゃないか?(失礼)
23才の時作った塑像

学生のときの夏休みには、彫刻科のアトリエを借りて塑像を作った。170cm等身大。
この時は、舞踏家のO氏にモデルをお願いした。後ろで手を組み直立姿勢を長く続けるのは、かなり大変だったそうだ。石膏で型取りし、漆で着色した。
この頃、尊敬した欧米の画家はまず立体の勉強をしたって聞いていたし、率直に言って絵を描くよりも面白かった。ブールデルが好きで彫刻家になりたいとも考えた、このころは絵より粘土のほうに情熱があったとおもう。
学生のあいだ、他に等身大を2体、半身を5体ほど作った。
卒業制作

藁束を描いた150号の卒業制作の前で。生意気だった23才のころの俺。
なんで藁束の絵を描こうと思いついたか、今は憶えていないが、とにかく大きい絵を描きたかった。
この頃、独立の中間冊夫先生が担任だった。
先生からなるべく色を使わないようにして描け、と言われたのは憶えてる。真っ黒で、彫刻的なフォルムや量塊感が先生の絵の特徴だったし。
デッサン現場

現場で描く時は、中が絵の具箱になってる、イタリア製の“馬”って呼んでる組立式のイーゼルを愛用している。
10年近く使って、かなりがたが来てる。
立って描き、離れて見たりしながら木炭紙に炭を手で刷り込んでいく、触覚的な感じが好きだ。

座って描くって事がどうもうまく出来ない。
座って描くときは、スケッチブックに鉛筆という組み合わせだが、難しい。
これが出来るようになったとき、また絵が変われると思うんだが。



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