1899年(明治32) 佐藤松市が、東京の下谷に初めて自分の店、佐藤商店を開き、炭や行火の販売を始める。そのとき26歳。
松市は北海道日高の農家の生まれ。15歳のとき上京し、銭湯の釜焚きや炭屋の小僧として苦労を重ね、独立して商売する日を夢見て、このときまで資金を蓄えていた。

1900年(明治33) 行火の行商が軌道に乗り、自分で新式の行火をいくつか考案してみるが、いずれも失敗。
パリ万国博覧会が開幕する。
1902年(明治35) 松市、29歳で7歳年下の小林ナオと結婚。妻の協力を得て新しい行火作りに励むが、うまく行かず、一度小火を起こしそうになる。
日英同盟協約が調印される。この年、横浜と東京でペスト患者が発生し、騒ぎになる。
1903年(明治36) ついに改良型の行火「新生」の開発に成功し、販売に踏み切る。その製品第一号は、故郷に住む母に贈られた。

1904年(明治37) 「新生」が爆発的に売れ、佐藤商店の店が手狭となり、入谷鬼子母神そばの表通りに引っ越す。このとき、後に副社長となる14歳の上田梅次が、最初の店員として入社。
日本がロシアに宣戦を布告し、日露戦争が始まる。
1908年(明治41) 向島で「新生」が原因と見られる火災が起き、警察の取り調べを受けるが、無実が判明。これを機に、行火からストーブへの転換を考え、開発に取り組む。

1911年(明治44) 英国製ストーブを手本に、小型で通気性の高い新型ストーブを完成するが、製作コストが高くつき過ぎ、製品化を断念する。後に二代目社長となる、長男謙吉が誕生。
中国で辛亥革命の狼煙が上がる。わが国では、立川文庫が爆発的な人気に。

1912年(大正1) 「新生」の改良型「新生改」を開発。一方で、低コストのストーブの開発に没頭する。
明治天皇が崩御、皇太子嘉仁が即位し大正と改元される。
6月、ストックホルム・オリンピックに、日本が初参加。
1914年(大正3) 試作したストーブの事故で、松市、左腕に大火傷。このときのケロイドは終生消えなかった。長女が誕生、故郷の母と同じケサという名前をつける。
第一次世界大戦勃発、日本もドイツに宣戦布告。
1916年(大正5) ダルマ鋳物ストーブの製品化に成功、「日高5型」と命名する。折からの「大戦景気」により、売れ行き好調。

1920年(大正9) 「日高5型」の増産を徹夜で続けるものの、注文に追いつかず。故郷の母ケサが77歳で死去するが、松市、葬儀への出席を断念する。
上野公園で最初のメーデー。
1922年(大正11) 佐藤商店を拡充し、店員も3人に増える。帝都自動車から大量の注文が舞い込む。この年の暮れに、貯炭式ストーブ「大衆11型」の開発に成功。
ワシントン軍縮会議が閉会。ダンスが大流行し、電灯の普及率が70パーセントに至る。

1923年(大正12) 未曾有の関東大地震により、帝都は壊滅。佐藤商店の社屋も焼失し、妻のナオと長女ケサが焼死。松市、長男の謙吉を連れて一時、千葉の市川に逃れる。