その106.目にはさやかに見えねども、秋だなあ(2005.10.4)
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◆「秋きぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」一一かあ。これは古今和歌集に載せられた藤原敏行の歌じゃが、なんか今の季節にぴったりじゃね。どこまで続く残暑かななんて思っていたけど、気が付くと朝晩はけっこう冷えるようになってきたし、コオロギなんかも便所のどこかで盛んに鳴いておるもんな。ま、夏のギラギラした太陽も、若い女性のお肌と同じで、いつかはくたびれるってことさ。
じゃが、こうした四季の移ろいを歌に詠ませたら、日本人ほどうまい民族は他におらんのじゃないのかね。昔から山紫水明で四季の変化がはっきりした日本列島は、歌詠みにとってはまさに題材の宝庫。春の桜に夏の星、秋の落ち葉に冬の雪と、あらゆる自然現象や森羅万象を人の世の無常に重ねて、しっとりと情感たっぷりに歌い上げる伝統は、世界広しといえども日本人の独壇場といってもいいかも知れんな。なに、コンビニのおにぎりの海苔もしっとりした方がいい? キミは鼻くそも、きっとしっとり型なんじゃろうな。
◆そういや、NHKテレビの大河ドラマではいま「義経」をやっておるが、わしが若い頃読んだ古典の「平家物語」の中でいちばん感動したエピソードも、やっぱり歌にまつわるものじゃったなあ。なにしろわし、この歌を目にし耳に聴くだけで、今でも胸が熱くなってしまうんじゃよ。え、いいから先に行け…? そう急かしなさんなって。
ときは寿永2年(1183)、源氏の軍勢に押し出されるように平家一門は京の都を捨てて、西海へと落ちて行くことと相成った。いわゆる“平家の都落ち”という奴じゃな。さしもの栄華を誇った平家も哀れなもので、一門の邸宅に火を放ち着の身着のまま、三種の神器と安徳帝を奉じての慌ただしい旅立ちとなったわけじゃ。そんなごった返す都の一角、固く閉ざした藤原俊成の屋敷の門を叩く一人の鎧武者がおった。その人の名は平家の武将、平忠度。歌人として知られる忠度は自作の和歌百余首をしたためた一巻の巻物を取り出し、その道の師匠である俊成に預けてこういった。これを担保に行きの交通費を貸してくれ一一? キミなあ、混ぜっ返すんじゃないよ。
◆そのとき忠度はこういったんじゃよ。いずれ世の中が静まり勅撰和歌集撰集の御沙汰があったとき、一首でも私の歌が撰ばれれば生涯の面目、草葉の陰から貴方をお守りしましょう、とな。こうして落ちて行った忠度だったが、やがて一の谷の合戦であえなく討ち死に。哀れに思った俊成は後にその歌の中から一首を撰び、勅撰集「千載和歌集」に載せてやったというわけさ。ただし平家は朝敵だったため、忠度の名前を伏せて「読み人知らず」としてな…。ええ話じゃないか、これ。
「さざ波や 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」一一そのときの歌がこれなんじゃが、また哀しくも美しい絶唱じゃねえ。かつて栄華を謳歌した志賀の都(大津京)は荒れ果ててしまったが、昔ながらの山桜だけはいまも美しく咲き誇っているというこの歌、まるで人の世の虚しさと共に、滅び行く平家への鎮魂を歌ったようにも思えるなあ。過去と現在を対比させながら、人間(無常)と自然(永遠)との間に横たわる宿命をも象徴的に語ってしまう手法は、まさしくしっとり日本的じゃないの。だからこのエピソードと歌を、わしは好きなんだよな〜。
◆ところで実は、平忠度の最期もまた哀しい歌にまつわる話で締め括られておる。一の谷の戦で敗れた平家の大将忠度は、落ち延びようとするところを源氏方の岡部忠純に呼び止められ、一騎打ちとなって一度は組み敷いたものの岡部の従者に右腕を切られて万事休す。ついには名も名乗らぬまま、その首を献上することとなってしまったな。岡部が相手の矢を入れる箙(えびら)に結ばれた文を取って見ると、そこには次の一首が詠まれておった。「行き暮れて 木の下陰を宿とせば 花や今宵の主ならまし」一一クーッ、なんか寂しげな歌やね。行き暮れた平家一門を迎え入れるものは、もはや荒野に咲く花の木陰でしかなかったのかな…。こうして、死んだ武者が平忠度だったことが分かり、多くの武将たちが文武に秀でた彼の死を惜しんで鎧の袖を濡らしたという話じゃよ。
なんだかどれもすごくドラマチックなエピソードじゃが、これらは今も日本人の琴線にビンビンと触れるんだよね。自分の人生を、人の世の定めや移ろいを、花鳥風月に重ねて歌に託すという手法は、控え目でストレートな感情表現を嫌う日本人のDNAが生み出した、最上の発明品なのかも知れんて。そんなわけでわしも今宵は月でも眺めながら、しっとりと恋の歌でも詠んでみようかな。なに、ボーグの天体望遠鏡貸します? わしはそんなキミの、脳味噌を覗いてみたいよ。
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