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その116.さらば、哀愁の原爆頭突き(2006.11.14)
いや〜、近頃すっかり寝心地が好くなったせいか、この日記の更新をつい忘れておったよ。なんかこの頃、ひまが出来るとすぐ眠くなってしまうんでなあ。え、老人ボケの始まりだから仕方がない? 何をいうとる。余計なことを抜かす奴には原爆頭突きを一発お見舞いするよ、大木金太郎張りのすごい奴を。──なんて冗談も、過去のものになってしまったのが悲しいねえ。
 “韓国の猛虎”と呼ばれた元プロレスラー、大木金太郎(本名・金一)氏の訃報が届いたのは10月の終わりの頃じゃった。なんたってこの人、力道山門下の若手三羽烏として、ジャイアント馬場、アントニオ猪木とならび、昭和のプロレス界を支えた貴重な存在だったもんなあ。まあ、馬場のような迫力や猪木のような華やかさはなかったが、なんつうか独特の渋味みたいなものを持った、いいレスラーだったよな。それに日本人にも親しまれた韓国人という意味では、韓流スターのうんと先を行った存在だったと言えんこともないね。

わしが大木金太郎というレスラーを初めて見たのは、たしか子供の時分にどこかで見たスポーツ新聞の記事の中だったな。そこには力道山の門人一同が顔写真入りで紹介されておったが、顔も名前もよく知らない若手たちの中にあって、「大木金太郎」という一人の選手の何となく親しみ易い名前と優しそうな顔は、どこか記憶に残るものがあったんじゃよ。「へえ、金太郎かあ…」。そのときはむろん、足柄山の金太郎にちなんだリングネームだとばかり思ってたんじゃが、後になって彼が実は本名・金一(キム・イル)という韓国人だったと知ったってわけさ。
 その金一青年が力道山に憧れ、故国から日本に密航してきたのは1958年のこと。リキさんに身元引受人になって貰い、日本プロレス入りしてデビューしたのが翌年11月のことじゃった。ちなみに、馬場と猪木が入門したのがさらにその翌年で、猪木のデビュー戦の相手をつとめこれを屠ったのが、金一改め大木金太郎だったんだね。しかし、同じ朝鮮半島出身ながら終生それを隠し続け、日本人になりきろうとした力道山は、どんな思いで彼にこのリングネームを授けたんじゃろうな。

そんな大木選手のプロレスラーとしてのイメージはといえば、体が硬くて不器用で、それでいて飄々とした味と朴訥さが同居した、ごつい田舎のオッサンという感じだったかなあ。とにかく、攻めるも守るもちっともスマートじゃなかったね。だけどその分、大木金太郎の代名詞ともなった豪快な頭突きは、際立った輝きを放っておった。なにしろあの片足を大きく上げて勢いをつけ、思い切り相手に叩き付ける必殺の原爆頭突きは、テレビのこちら側にも音と痛さが十分に伝わってきたもの。ある意味これ、馬場の十六文キックや猪木のコブラツイストより、十二分に説得力のある決め技だったかも知れんよ。
 だから彼の記憶に残る試合といえば、やっぱりこの頭突きがからんだものが多かった。ブルート・バーナードとの試合では、バーナードの振り下ろした角材を頭で受け損ない、左耳があわやちぎれ掛ける重傷を負ったり、アントニオ猪木戦では、鬼のような頭突きの乱打で猪木をあと一歩まで追い込んだり。何より、ボボ・ブラジルとの「頭突き世界一決定戦」では、どっちの頭が固いかというシンプルかつ分かり易い対決テーマで、日本中のプロレスファンを沸かせてくれたり、とな。いやホント、あれは興奮したよ。

じゃが彼の最大の魅力は、やっぱり全身にそこはかとなく漂う哀愁にあった、とわしは思うとる。享年77歳という年齢からも分かるように、彼がプロレスラーとしてデビューしたのはすでに30歳のとき。“日プロ若手三羽烏”と言われながら、実は馬場より9歳も、猪木よりは14歳も年上で、逆に師匠の力道山とは5歳しか違わなかったんだね。どうりでむかしから、老け顔をしていたはずだよ。つまり彼は、若手の頃からすでに立派なオジサンだったってわけ。
 大木金太郎というレスラーに漂う哀愁は、こうした年齢や出自そして体の硬さなどという、様々なハンディとの闘いから生まれたものであり、そこからまた馬場や猪木にはない、独特の味がにじみ出ていたんじゃないのかな。思えば大木選手は、負けた試合後の表情に風情のあるレスラーじゃった。悔しさや哀しみ、そして諦観みたいなものを漂わせながら少し俯くたたずまいに、どこか人の心を惹き付けるものがあった。1974年の猪木との因縁のシングル戦に敗れた後、二人で抱き合って号泣する姿には、わしもおもわずもらい泣きしたもんじゃよ。
 晩年は頭突きの後遺症で闘病生活を送っていたという大木選手、まさにプロレスに命を懸けた人生だったんだね。彼の死によりまた一つ、昭和の古き良きプロレスが遠くなってしまったなあ。さらば猛虎、さらば原爆頭突き──。