|
|
|

   


その80.春の電車の風の匂いは(2003.4.28)
なんて言うのかな、この季節。日本に生まれた喜びを、しみじみと感じるんだよね〜。オーバーに言えば、縄文人の精神が騒ぐとでもいうのか。青い空、緑の山野、そして心を洗うような風の匂い…。こんな美しい自然を満喫できるこの国の恩恵に、ただただ感謝したくなるんだなあ。な、キミもそうじゃろう?
 んなわけで先日、昔からのポン友3人が誘い合って、ついふらふらと春の房総半島に遊興の旅に出掛けたというわけ。ま、みんなくたびれたオジサンばかりなんだけどね。乗ったのは、田園地帯をくねくねと曲がりながら走る、1両だけのローカル電車。線路脇にはあわあわとどこまでも黄色い菜の花の群が続き、各駅ごとに咲いた満開の桜が乗客の目を楽しませてくれたな。わしらもお酒のビンを傾けながら、のんびりと車窓の風景を眺めておったわい。まさに命の洗濯って感じかな〜、これ。

ところが、ある駅を出た後しばらく走った電車が、どういうわけかゆっくり停車しちまった。不思議に思い運転席の方を見ると、真新しいランドセルを背負ったお下げの女の子が泣いておる。前の停車駅で降り損なったらしいんじゃな。そばで一人の老人の客が、運転士に食ってかかっておった。「駅についてもドアは開かないし、何の説明もない。こんな不親切な電車があるかい!」ってね。無理もないよこの電車、ワンマンタイプで乗客は降りる前に運賃を精算して、運転士に申告しないとドアが開かない方式だったんじゃ。おまけにアナウンスなんかも一切ない、無駄なことはやりません、というポリシーの電車でな。どうやら小学校に入学したてで、電車通学を始めたばかりらしい女の子は、それが分からなかったんじゃなあ、可哀想に。
 電車が止まったのは、大きな川の手前。こんなところでどうするつもりか、と乗客の視線はみな運転席に集中しておった。泣きじゃくる少女、怒り心頭の老人、若い運転士は困り果てた顔をして頭を抱えたな。で、その後どうなったと思う?

われわれの熱い視線の中、運転士は黙って少女の手を引き電車の最後尾へ行ったんじゃ。そして車掌室のドアを開けると、静かに線路の上に降りた。それから、少女をなだめすかして背中に乗せると、もと来た線路の枕木の上を一目散に走り出したのさ。おお〜、こんなのありかよ! 乗客たちはいちように顔を見合わせたわな。そりゃそうじゃ。いくら1時間に1本も走らない単線のローカル電車とはいえ、この手があろうとは…。
 しばらく経って、運転士が息を切らして戻ってきた。わしの目の前を通り過ぎるその赤い顔には、まいったなあと書いてあったよ。で、電車はふたたび何ごともなかったように走り出したってわけ。この間、運ちゃんからは何の説明もなし。不親切と言えば不親切。もちろん、次の駅の停車時刻にも若干の遅れは出たはずじゃ。だけどなあ、それに対して文句を言う客は一人もいなかった。みんな、あの少女が無事に前の駅に着いたらしいことを、心から喜んでいるふうじゃった。よかったよかった。なんだか優し〜い風が、小さな車両の中を流れているようだったな。

まあこれ、誰が悪いってわけでもないが、強いて上げれば一番悪いのはワンマン方式の電車じゃ。慣れている客ならいざ知らず、初めての人や子供なんかにはもっと親切な案内があって然るべき。バスなんかだったら、降車を知らせるボタンが付いておるが、それもなし。下手をすれば大人だって降り損なっちまうよ。それに運転士だって一時的にせよ、他の乗客をほったらかして自分の職場を空けたわけだから、少なくとも説明くらいはすべきじゃった。
 でも考えてみるとこの場合、ほかに方法はなかったんじゃないのかな。むろんそのまま電車を走らせて、次の駅で少女を降ろすという手もあった。しかし、それだと彼女は次の上り電車まで長い時間、我慢して待たなけりゃならん。これはちょっと可哀想じゃ。小さな少女の心は深く傷つき、永遠に苦い思い出として残ったろうよ。下手をしたら、電車恐怖症になったかも知れんわね。まあ、運転士がそこまで考えたかどうかは別として、彼はファインプレーをやったんじゃよ。きっと少女の記憶にはこの日のことが、若い運ちゃんの背中の温もりとともに、大事に刻まれたことじゃろうよ。お兄ちゃんありがとうってね。それでいいじゃないか。なんたって、1時間に1本も走らないローカル電車の強みとはこのこと。こんな極上のサービス、都会の電車じゃぜったいできません!