その88.「ラスト サムライ」はやっぱり変!(2004.1.9)
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◆あ〜、いかん。正月に餅を食べ過ぎて、また太ってしまったな。おまけにお酒の飲み過ぎで、いまだに全身がむくんだまま。歩くとなんだか、チャポチャポと音がしそうだね。なに、その出っ張った醜い腹を何とかしろ? 分かってます。分かっちゃいるけど、すぐには何ともならないんだよねこのお腹。膨らんだ餅じゃないんだからさ。
そんなこんなでこの正月休みにわし、運動がてら近所の映画館に出掛けたってわけ。で、見たのがいま話題の「ラスト サムライ」なんだけどね。何というのかこの映画、日本人には複雑な気持ちを抱かせるんじゃよ。まあストーリーの着想は面白いし、トム・クルーズや渡辺謙といった俳優達の演技も悪くはない。でもなあ、せっかくの日本を舞台にしたこの映画、どこか変だとキミも気付いたじゃろ? そうなんじゃよ。普通の日本人なら、なんかビミューな違和感を覚えてしまうんだよね。
◆物語の舞台は明治初期の日本。トム・クルーズ扮するアメリカ人のオールグレン大尉が、明治新政府に招かれて日本軍の教官になるところまではいい。じゃがなあ、その政府軍が戦う相手というのが、滅び行くサムライ一族という設定。近代化を推し進める政府から独立して、“誇り”や“名誉”といった日本の伝統的価値観を守り、江戸時代そのままの生活を続けようとするサムライ達の長が、“殿”と呼ばれる勝元(渡辺謙)なんじゃ。政府軍は彼ら一族を根絶やしにしようとするが、やがてトムさんはサムライ達の生き方に深く共感を覚えて行動を共にする…、というストーリー。
明治10年の西南戦争に着想を得たような話じゃが、まずやっぱり近代化した政府軍と戦うのが戦国時代そのままの騎馬武者群というのが変。長篠の戦いじゃないんだからさ、これはいくらなんでも無理がある。鉄砲伝来から300年以上も経てば、サムライ達の戦法もちったあ進歩してらあ。それに、明治10年前後の日本のどこかに“殿”が率いるサムライのコロニーがあるという設定も、日本の歴史に対する勉強不足じゃあないのかい。ましてやその村を、政府の命を受けた忍者が襲ったりしたら、これは絶対に許せませんよ。なめたらいかんぜよハリウッド!とわしはいいたい。
◆もともとこの映画、明治という時代を舞台に選んだところに失敗がある。明治維新を、近代国家による単純なサムライ狩りの歴史と考えたら、とんでもない間違いじゃ。アメリカ政府のインディアン狩りじゃないんだからさ、他国の歴史を舞台にするのならそれ相応の敬意を払って欲しいもんじゃよ。
明治維新の本質は、欧米列強の脅威から日本の独立を守るため、サムライ達が自分の血を流して新体制を築いたところにある。彼らは新しい国家を作るため、主君や自分たちを守ってきた旧来の階級制度を、自分たちの手で葬ったんじゃね。そこにこそ、明治維新の高潔さがあるとわしは思うのよ。大名家は廃され、大勢の武士が失業した。じゃがお陰で生まれ変わった近代国家日本は、他国の植民地になることもなく、世界史の舞台に船出したというわけさ。明治新政府を作ったのは、そうした新しいサムライ達なんじゃ。そして、そういった“サムライ・スピリット”は、明治以後も心ある日本人に引き継がれて行く…。そこのところのツボを押さえた上での大法螺話なら、わしも気持ちよく泣けるんじゃがねえ。
◆まあ、この映画で「ラスト」を迎えたのは、腰に刀を差し髷を結い寡黙だがチャンバラが強いという、ハリウッドが抱くステレオタイプのサムライ像じゃないのかな。本物のサムライは今でも死んではおらんよ。例えばスポーツの世界を見てみい。サッカーの中田選手や野球のイチロー選手など海外で活躍するアスリートは、必ず“サムライ”の名を冠せられるな。実力がありながら控えめで、黙々と献身的にチームに尽くすが、言うべきときには自分の意見をはっきり述べる。外国人のチームメイトに尊敬され好かれるのも、彼らがそんな現代のサムライだからじゃよ。伝統は生きておる。
「サムライ」は世界に通用する日本語じゃ。外国人は敬意と畏怖の念を込めて、日本人をそう呼ぶ。先人が築いた気高いサムライ像を汚さぬよう、わしらももう一度“サムライ・スピリット”を見直す必要があるんじゃないのかい、誇りと威厳を持ってな。え、キミも明日から着物を着て歩く? いいけどさ、ちょん髷だけはやめときなよ。
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