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その89.ベストフィットな二人の関係(2004.2.10)
おお、まさに“帰ってきたサムライ!”。見事な復活じゃね〜、よかったよかった。なに、誰のことかって? 決まっとる、セリエA・ボローニャに移籍した中田英寿選手のことじゃよ。パルマではブランデッリ監督の構想から外れ不遇の日々じゃったが、ボローニャに移り司令塔の位置に座ってからは、水を得た魚のような大活躍。マッツォーネ監督の信頼も厚く、まさにチームの大黒柱だもんなあ。やっぱり、選手を活かすも殺すも監督しだい。人間、自分を知る良き師とめぐり会うって、大事なことなんだね〜。
 そういえば、先日亡くなった日本人ボクサー初の世界チャンピオン・白井義男氏と、コーチだったカーン博士の師弟愛も、有名な話だね。なんたってこの二人がめぐり会わなかったら、敗戦後の日本を熱狂させた世界フライ級チャンピオンの誕生は、なかったかも知れないからね。運命的邂逅が二人をスターにし、戦後史の輝かしい1ページを生んだってわけさ。え、白井さんて誰ですか? キミみたいな奴には、パイルドライバーを3発ほどかます必要がありそうじゃな。

ときは昭和23年7月15日、ところは東京木挽町の日拳ホール。練習していた白井義男は、軍隊帰りの中堅ボクサー。デビュー当時こそ連勝したものの、復員後は兵隊時代に腰を痛めたせいもあり、負けや引き分けの多いパッとしない選手生活を送っていた。と、そこへフラリと現れた進駐軍らしい一人の外人、50人を超す練習生をぐるり見回した後、つかつかと白井の元に歩み寄り「ハロー」と声をかけた。この人こそGHQの天然資源局スタッフとして、来日中だったアルビン・カーン博士。ボクサーの経験はなかったものの、自分のボクシング理論を実践してくれる若者を捜していたんじゃ。まさにこれが、二人の運命の出会いだったんだね。
 一目で白井の素質を見抜いたカーン博士は、その日からマン・ツー・マンで彼のコーチとなり、“打たせずに打つ”という科学的トレーニングを徹底的に教え込んだ。それまでの日本のボクシングは、ガンガン打ち合うファイタータイプが主流だったから、これは革新的だったんじゃね。それからの白井はまさに連戦連勝。打たせずに打つクレバーなボクシングを磨き上げ、ついに昭和27年5月19日、アメリカのダド・マリノとの世界フライ級タイトルマッチに勝利。晴れて日本人初の世界チャンピオンの座に就いた、というわけなのさ。二人の奇跡のような物語は白井選手引退後も続き、身寄りのなかった博士はやがて家族の一員として、死ぬまで白井家で過ごすことになる。たった一度の出会いが、こんな映画のようなお話を生んだんだね。

似たような話は他にもある。昭和29年頃、東京は隅田川べりにある少年野球場を覗いた、プロ野球・毎日オリオンズの選手だった荒川博は、そこで一人の中学生のバッティングに注目し、右打ちを左打ちにするようアドバイスをする。その少年の名は王貞治。後に巨人軍入りした王は、そこで師と仰ぐ荒川バッティングコーチと再会し、血の滲むような試行錯誤と鍛錬の中から、ついにあの一本足打法を完成させたんだね。本塁打868本という驚異的記録は、二人の出会いが生んだ金字塔なんじゃよ。
 昭和35年、ブラジルに遠征したプロレスラー・力道山は、サンパウロのホテルで中央青果市場に勤める17歳の少年を紹介される。陸上競技の投擲の選手だという、顎の長いその少年の名は猪木完至。後のアントニオ猪木じゃ。力道山は即刻、猪木少年をスカウトし日本に連れ帰った。ただしリキさんは、同時入門の馬場正平には即戦力としてのエリート教育を施す一方で、この少年を鬼のようにしごきまくった。結果として、猪木の肉体には理想的なプロレスラーへの下地が出来、心には炎のような闘魂が宿ったというわけじゃ。力道山の慧眼はさすがというべきじゃが、この二人をめぐり会わせた神様にも感謝したいね。

しかし、こうして天賦の才能と名伯楽とが出会えるのは、本当に万に一つの奇跡。めぐり会えぬまま埋もれて行く才能の方がはるかに多い、というのがこの世の中じゃろうて。また、仮に二人が出会えたところで、必ず才能が開花するという保証はない。そこにはまた二人を取り巻く環境や時代の条件、などというものが作用してくる。こうしてみると難しいもんじゃね〜、才能が世に出るのも。もっとも、だからこそ希少価値が高いとも言えるんじゃが。
 ま、思えばわしらの人生も、いろんな人との出会いの上に成り立っておる。天才ならずとも結果として知らず知らずのうちに、誰かの世話になったり役に立ったりしているのかも知れんわな。一期一会、わしらもこの言葉をよ〜く噛みしめたいもんじゃ。ちなみに、わしにプロレスのコーチをして欲しいというキミ、今は弟子を取っておらんからあしからず!